【下書き】この記事は公開前の初稿です。公開情報をもとにした構成編で、ボスによる実体験の加筆は必須ではありませんが、内容の確認はお願いします。

エデン・アザール、ケヴィン・デ・ブライネ、ロメル・ルカク、ティボ・クルトワ、ヴァンサン・コンパニ、ヤン・フェルトンゲン。名前を並べただけで、2010年代のヨーロッパの主要クラブの顔ぶれが浮かんでくるようです。そして彼らは全員、人口約1150万人の国・ベルギーで、ほぼ同じ時代に育った選手たちです。

「黄金世代」と呼ばれたこのチームは、2015年11月にFIFAランキングで初めて1位に立ち、2018年ワールドカップでは準々決勝でブラジルを破って3位——ベルギー史上最高の成績を残しました。なぜ、これほどの才能がひとつの小さな国の、ひとつの時代に集中したのでしょうか。今回は、その背景にある「仕組み」を辿ってみたいと思います。

出発点は、ホスト国としての挫折でした

物語の始まりとしてよく語られるのが、2000年です。この年、ベルギーはオランダと共同でEURO2000を開催しました。ところが、地元開催の大舞台で、ベルギー代表はグループステージで敗退してしまいます。EUROとワールドカップを通じて、開催国がグループステージを突破できなかったのは、このときが史上初めてのことでした。

この挫折が突きつけたのは、単に「負けた」という事実だけではなかったようです。隣国のオランダやフランス、ドイツには、それぞれはっきりとしたサッカーの型がある。一方の当時のベルギーには、国として共有された育成の哲学がない——。代表チームの応急処置ではなく、土台そのものを作り直すべきではないか。改革は、そういう問いから始まったと言われています。

一枚のビジョン文書から始まった改革

その中心にいたのが、ベルギーサッカー協会のテクニカルディレクターを務めたミシェル・サブロン氏です。サブロン氏のもとで協会は、ルーヴェン、ヘント、ルーヴァン=ラ=ヌーヴ、リエージュといった国内の大学に協力を求め、ユース年代の試合を大量に分析して、育成の現状を科学的に洗い出すところから着手しました。そして2006年、その成果をまとめた育成ビジョン文書「La vision de formation de l'URBSFA」が協会に提出されます。派手な補強でも監督交代でもなく、一枚の文書が改革の軸になった、というところが、いかにもこの国らしいと感じます。

その中身を、いくつか挙げてみます。

まず、育成年代の試合形式の変更です。大学の分析結果にもとづいて、小さい年代では5人制、そこから8人制、11人制へと段階的に移行する形へ整理されました。ピッチもゴールも小さくすれば、ひとりの子どもがボールに触る回数も、1対1の場面も、ずっと増えます。

次に、その「1対1」を育成の核に置いたことです。サブロン氏自身が、ビジョンの中心はデュエル(1対1の勝負)とドリブルの技術だったと繰り返し語っています。勝つための組織を教え込む前に、まず個人がボールを持てるようにする、という順番です。

さらに、ユース年代の各代表チームで4-3-3のシステムを共通化し、同じ考え方をクラブの育成現場にも広げていきました。どの年代でも、どこのアカデミーでも、おおよそ同じ絵を見ながら育つようにする、ということかと思います。あわせて、育成年代では目先の勝敗より個人の成長を優先する方針も打ち出されました。

もうひとつ欠かせないのが、「トップスポルトスクール」と呼ばれる、学業と午前中のトレーニングを両立させるエリート育成校の存在です。ここからは、クルトワ、デ・ブライネ、ドリース・メルテンス、アクセル・ヴィツェル、ムサ・デンベレ、ナセル・シャドリといった、後の黄金世代の主力が次々と巣立っていきました。デ・ブライネはヘンクの、メルテンスはルーヴェンの学校で育った、と伝えられています。

黄金世代は、ある日突然あらわれた奇跡ではなく、挫折のあとに机に向かった人たちが耕し直した畑から、10年がかりで実った収穫だったのではないでしょうか。

仕組みだけでは、説明しきれない部分もあります

とはいえ、すべてを改革の成果と言い切ってしまうのは、少し単純すぎるかもしれません。

たとえばクラブの役割です。クルトワを育て、ヘントから来た10代のデ・ブライネを開花させたヘンク。コンパニやルカクを10代のうちにトップチームへ引き上げたアンデルレヒト。国の方針だけでなく、各クラブのアカデミーの目利きと度胸が、才能を実際の選手に変えていきました。

一方で、世代最大のタレントであるアザールは、10代半ばで国境を越えてフランスのリールに渡り、主にベルギーの外で育っています。小さな国だからこそ、フランス、オランダ、ドイツという育成大国がすぐ隣にあり、選手が行き来しやすい。この地理的な条件も、間違いなく追い風だったと思います。

また、この世代の顔ぶれを見ると、コンパニやルカクのようにコンゴにルーツを持つ選手をはじめ、さまざまな背景を持つ選手が並びます。移民社会としてのベルギーの多様性が代表チームの厚みになっていったことも、よく指摘される点です。制度という「受け皿」と、社会の変化という「水脈」。その両方が重なった時代だった、と見るのが実際に近いのかもしれません。

世代は去っても、仕組みは残る

黄金世代の中心選手たちは、すでに多くが代表を退きました。それでもベルギーからは、その次の世代の選手たちが途切れることなくヨーロッパの舞台に出続けています。ひとつの世代の物語としてだけ見れば「終わった」話ですが、育成の仕組みの物語として見れば、まだ続いている話です。

「五大リーグとベルギーリーグ、何が決定的に違うのか」という記事でも触れましたが、このサイトが一貫して伝えたいのは、ベルギーサッカーの強さは個人の才能ではなく構造にある、という見方です。黄金世代は、その一番分かりやすい証拠だったのではないかと思います。ジュピラー・プロ・リーグの試合で、まだ線の細い10代の選手が平然と先発している場面に出会ったら——その背景には、20年以上前の挫折から始まった長い物語が流れていることを、少しだけ思い出してもらえたら嬉しいです。

【出典メモ】Bleacher Report「Michel Sablon: The Man Who Re-Engineered Belgian Football」、CNN「The Belgian Blueprint」、Sky Sports、Training Ground Guru、UEFA.com(EURO 2000)、Wikipedia(各選手・ベルギー代表)等の公開情報を参考に構成(2026-08-31確認)。FIFAランキング1位到達(2015年11月)・2018年W杯3位・EURO2000開催国初のGS敗退・2006年ビジョン文書・トップスポルトスクール出身者の顔ぶれは複数ソースで確認済み。大学分析の試合数など細かい数値は諸説あるため本文では定性的な記述にとどめています。